第四部 昭和前期編 ~多事多端~ 昭和初年~昭和20年

48.満州事変

昭和6年9月、日本の関東軍は、みずから南満州鉄道を爆破して、中国侵略の口実としました。満州事変の勃発です。政府はしきりに不拡大方針を唱えますが、現地軍は次々に戦線を拡大して、既成事実を積み重ねます。
4ヶ月で満州地方を占領すると、中国清朝のラストエンペラー溥儀を立てて満州国の建国を宣言させました。相次ぐ戦勝の報道に、国民は旗行列、ちょうちん行列で気勢をあげました。
あとは坂道を転げ落ちるように、軍国主義へと走り出しました。国内では農村が疲幣し、東北地方では娘の身売りが続出します。血生臭いテロが続発します。
昭和7年の上海事変五・一五事件、同8年の国際連盟脱退、同10年の二・二六事件、そして同12年の日中戦争から、16年12月8日の対米英宣戦布告へと、日本はひたすら戦争の道を歩んだのでした。
満州事変は、そのような泥沼戦争への序曲でありました。

当然、外国、特にアメリカからの観光客は次第に減少してゆきます。それを補うため、ホテルは日本人客の吸収と宴会の誘致とに力を入れることになります。
実は世の中が不況になって、かえって、ホテルは宴会が増えました。それというのも、宴会などの経費を節減しようとすれば、料亭よりもホテルの方が安くあがったからでした。料亭や日本旅館で宴会を開きますと、ホスト役の芸妓を呼ぶことになります。ところがホテルですと、その必要がなく、ハイカラで、しかも芸者の花代が要らないだけ、費用が安く済むのでした。

昭和8年の夏には、琵琶湖汽船とタイアップして、『びわ湖みどり丸納涼会』を開催しています。1円の会費で、「京都ホテル」で食事の後、浜大津までドライブ、最新鋭の湖上遊覧船みどり丸で、石山寺まで往復の船上ではジャズの演奏、仮装ダンスパーティなどを楽しんでもらうという催しでした。
また、13年に、従業員が鴨川から石などを拾い集め、屋上に庭園をつくり『納涼宴』を始めました。納涼ビアガーデンのはしりということになります。

減ったとはいっても、外国からの観光客は貴重な収入源でしたので、国も京都市も、観光に力を入れています。鉄道省に国際観光局が出来て、対外宣伝を始めたのが昭和5年で、同時に京都市に観光課が生まれました。鉄道省では早速、東京・大阪・京都の三大都市に直営のホテルを建設する計画なども立てています。
この構想には京都は大反対でした。「京都ホテル」「都ホテル」「京都ステーションホテル」の3ホテルがわずかな外国人宿泊客を奪い合っているのが実状であり、さらにホテルが増えては共倒れになると言うもので、結局、立ち消えになりました。

昭和3年3月から4年3月までの1年間に、全国のホテル63、外人が宿泊できる旅館67について、外国人の宿泊事情を調べたところ、総数は6万3380人で、延べ人数は25万4850人、平均滞在日数は4.2日でした。第1位は東京で1万1447人、第2位が京都で8321人、続いて神戸の8137人となっています。

ラストエンペラー溥儀

愛新覚羅 溥儀(1906~1967)
中国清朝の最後の皇帝、のち「満州国」の皇帝。3歳で即位し、6歳で辛亥革命により退位した。1932年、日本が満州事変によって中国東北部につくった傀儡国家「満州国」の執政にかつぎ出され、34年皇帝に即位、康徳帝と称した。 敗戦後ソ連に抑留されたのち極東国際軍事裁判で日本の満州侵略について証言、その後中国に引き渡され、中華人民共和国で波乱に満ちた生涯を閉じた。

上海事変

満州事変による戦線の拡大が激しくなる中で昭和7年1月、日本軍が上海で起こした軍事行動に伴う日中間の紛争。日本軍は「満州国」創設工作を隠し、中国人の抗日運動を弾圧するため、中国人による日本人僧襲撃事件を演出したが、中国側の頑強な抵抗にあい失敗。
この機を利用しての日本の上海侵略は果たせなかった。この事件によって抗日運動は激化し、日中戦争に発展。のちの太平洋戦争の導因となった。

五・一五事件

デモクラシーの勃興や社会主義勢力の発展、農村不況の拡大などで政党内閣に不満を抱く一部の海軍青年将校らが起こしたクーデター。陸軍将校生徒や愛郷塾生らが加わってこの日、首相官邸、警視庁、政友会本部などを襲撃、犬養毅首相らを殺害した。

鉄道省

もと内閣各省の一つ。鉄道大臣を長官とし、鉄道行政に関する事務を管掌した中央官庁。
国有鉄道の経営にもあたった。昭和24年、運輸省に改組。

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