第四部 昭和前期編 ~多事多端~ 昭和初年~昭和20年

47.国際不況

昭和4年の前半は、御大礼式場跡拝観などで観光客の入洛が相次ぎました。第4期の利益金は2万372円と報告されています。ところが昭和4年の後半にはいって第5期の報告では、約5万円の減収が計上されています。一般経済界の沈滞ムードが影響したのでした。

ただ10月から11月にかけて、太平洋問題調査会、万国工業大会などの国際会議が日本で開催されましたので、3週間にわたって京都のホテルは満室となっています。しかも第6期の収支決算では、前年同期比で3割減、約8万2000円の減収でした。さらに昭和5年後半の第7期も実質は約6万円の減収でしたが、やりくり算段して、かろうじて欠損を避けたという状況です。
第7期の営業概況は次のようになっています。

営業概況

世界的経済界ノ不況ハ遊覧都市ニ於ケル本ホテルノ営業ニ対シ、
極度ニ影響シ其ノ収入ハ前年度同期ニ比シ減収約六万円ナリ、
乍然此ノ未曾有ノ経済的試練ニ屈セズ極度ノ経費節減と一般
従業員ノ緊縮トニヨリ利息金約壱万八千円ヲ支払ヒ、而カモ
尚若干ノ利益金ヲ挙グル事ヲ得タリ
室料収入ハ前期ニ比シ約壱万壱千五百円ノ減収ニシテ本期宿泊人員、
二,九八五人延人員六,五一六人、滞在日数二日一分八厘ナリ、
食堂収入ハ前期ニ比シ壱万八千余円ノ減収ニシテ、食事客数
三九,一四一人平均二円四拾九銭(飲料代ヲ含ム)ニ相当ス、
右ハ緊縮ノ影響ヲ切実ニ示スモノニ外ナラズ。

<第7期営業報告書  昭和6年1月26日>

昭和6年6月の臨時株主総会では、資本金125万円のうち50万円を減らして75万円として、この急場をしのぎました。昭和4年10月にニューヨークで起こった株式の暴落から、世界中に不況が波及したのでした。
日本は翌5年春に生糸価格の暴落が引き金となって、この嵐に巻き込まれます。昭和5年に減資した企業は311社、解散は833社に及びました。
資本主義の国にとっては、悪夢のような4年間でした。

ホテル側も、何とか収入を上げたいと、努力をしています。例えば、昭和5年には、京都のホテルやレストランが一斉にクリスマスの夕べと銘打って、いろいろ客引きの催しをしました。特に目立ったのが「京都ホテル」で、日活の映画スターで人気抜群の入江たか子を呼び、男女優らで編成したアクタースバンドの演奏でダンスを楽しむという趣向でした。これには京都市長、滋賀県知事らトップ級の政界人、経済人を含め500人が集まった、と新聞は書いています。
次の都市への期待を寄せて、世直しに一騒ぎして、景気回復を願う心理状態であったものと見えます。

一般経済界の沈滞ムード

昭和4年のニューヨーク株式市場の崩壊から始まった恐慌は、世界の資本主義国全部に波及し、約4年続いた。全体の工業生産力は約44パーセント、貿易は65パーセント低下し、企業の破産は数十万件に及んだといわれる。

入江たか子

本名は東坊城英子(1911~1995)。父は子爵、貴族院議員で、名門出のスタートとして話題を呼び、日活に入社後、溝口健二の「東京行進曲」で日本のグレタ・ガルボと目され人気を集めた。
天来の美貌は戦前「銀幕の女王」とまでいわれたほど。代表作は溝口健二の「滝の白糸」。「月よりの使者」「神風連」なども大ヒットした。

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