第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

14.天皇の病床お見舞い

事件の夜の「常盤ホテル」は、物々しい雰囲気でした。皇太子慰問の貴紳はひきもきらず、市民はまた、花や菓子などをお見舞いにと献上して、ホテルの前には、臨時の受付までできました。新聞は当夜の様子を次のように伝えています。

<中外電報> 明治24年5月12日

●事変に関する市街の景況

露皇太子殿下に関する此回の事変に就いて京都市街の混雑は実に名状す可らざる景況にて、御旅館なる常盤「ホテル」の前、凡そ半丁ばかりが間は一切諸車の通行を差し止めたれど、お見舞いとして陸続司候せる貴賤老若、夥多しく群衆して、門前より西は市参事会員出張所の辺、北は、二条通り、南は独逸学校前の辺までは、実に立錐の余地もなく、殊に正面両側の花畑の前は御旅館を出入りする人々の乗車をズラリと置き並べあれば、常には広き往環も一層狭きを覚えたる程なり。
又斯る事変に付き、殿下へ訪問の人々より贈るは花類尤も多く、唯さへ品払い底なる花物いよいよ欠乏を告げ、代価は平常に数倍し、今日にては仮令金銭を厭はずとも上等なる花物はナカナカ容易に手に入らざる由なり。

又各商工業組合、政治上の団体、各種公私の学校、其他市街一般の民、何れもお見舞いとして何か殿下に献上せんとて頻りに工夫を凝し居るもの多くあれど、菓子類、果物等は己に続々献納ありて珍しからざるより、孰れも寄合ふて相談最中の由なり。

又市街の人力停車場は、此回の事変により、各旅店其他平生の得意先より一日買切りの注文も続々ありて、臨時に曳子を増し、他の人力車夫も往来の拾乗り常に増して非常に収得あり。随って大津、伏見、淀等の地方より新たに入込みたる車夫共ナカナカ夥多しけれど値段はますます高く、殆ど平常に比して二、三割方も騰貴したりと。又市民は昨日より一般に歌舞音曲諸興行物等を停止し敬愛の意を表したれば、流石、熱閘を極むる歌吹海、新京極の通りもコトリとも音を発せず。

各花街も寂として三味太鼓の音なければ、随って芸舞妓は売れ口至て宜しからず、一向淋しき景気なりしと云ふ。又市街の旅店中、常盤「ホテル」近傍より三条大橋東西は、最も旅客多くして、或は謝絶し止むを得ざるは他店へ回し、又は合宿を頼みなどして漸く間に合はせたる程の繁盛にて、二条と四条の間の各旅店へ投じたるもの甚だ多かりしという。

京都だけでなく、全国の府県市町村から、お見舞い電報が舞い込みました。府庁ではその英訳作業が徹夜でおこなわれました。翌日もお見舞状と慰問の品がつぎつぎと届き、結局、長持16個におさめて、皇太子のご乗艦アゾバ号に届けています。

事件翌日のニコライ皇太子の日記を見てみましょう。

『ニコライ2世の日記』

●5月12日 火曜日

9時間半もよく眠った。気分は爽快。
部屋着のまま座っていてほとんど動かなかった。日本間が非常に気に入った。障子や戸を開けておくと空気がどっと入ってくるからだ。
日本中あちこちから、既に訪問したところからも、まだ訪問していないところからも、昨日の悲しむべき事件について私に見舞い状を送り届けてきた。一日中、神社や学校、団体や商店からの見舞いの品が庭から届けられてきた。見舞いの電報も数しれない。夜10時には天皇ご自身が二人の親王をつれて東京から到着された。

天皇は翌13日、ニコライ皇太子を宿舎の「常盤ホテル」に訪ねて、お見舞いをします。玄関には、ギリシャ皇太子ジョージ殿下がお迎えに出て、皇太子の寝所にあてられた日本間に案内されました。

お二人の会見は20分ほどで終わって、天皇は御所にお戻りになられます。その後、本国からの指示で、皇太子は神戸の軍艦に移って静養されることになりましたが、ロシア側は、極端におびえておりました。

神戸まで、明治天皇にもニコライ皇太子にご同行を願うというのです。天皇がご一緒であれば、暴漢に襲われる心配はなかろうというわけです。明治天皇は、再び馬車で「常盤ホテル」に行かれ、皇太子ともども、七条停車場へ、さらに神戸へとお送りしました。

日本側から、神戸の御用邸でお食事をさしあげたいと、お招きしましたところ、反対に軍艦での食事に招待を受けまし た。

当時の七条停車場当時の七条停車場

天皇を人質にとられて、そのまま出航したらどうするのかと、京都御所では、伊藤博文ほかの重臣たちが額を集めて協議しましたが、結論がでません。
やむなく、天皇にこのことを申し上げますと、即座に「朕応に行くべし。露国は先進文明国なり、豈敢て爾等の憂慮するが如き蕃行を為さんや」と、即断されました。

その艦上での食事の際のエピソードですが、ロシアの宮廷では、食間にタバコをのむ習慣がありましたので、ニコライ皇太子が明治天皇にタバコをおすすめしました。天皇は、ご自分もポケットをさぐってタバコを取り出されて皇太子におすすめしたのでした。天皇はタバコをお吸いになりませんが、ロシア宮廷の習慣についてもご勉強で、侍従がお願いするまでもなく、タバコをご自分で用意しておられたということです。

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