第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

15.大津事件・余聞

その1・皇太子のお部屋

「常盤ホテル」にお泊まりのニコライ皇太子は、日本間がお気に召されましたが、そのお部屋が当時のままに、今も保存されています。場所は円山公園の安養寺の書院です。

大津事件以来、ニコライ皇太子がお使いになったお部屋は、明治天皇もお迎えしましたことで、すっかり有名になりました。
前田又吉の死後、「常盤ホテル」の経営は、井上喜太郎にバトンタッチされ「京都ホテル」となります。やがて、自慢であった日本館も取り壊せされることになりました時、井上家の菩提寺であった安養寺が、皇太子ご使用の2部屋だけを譲りうけて、同時に移築しました。

皇太子がお居間にあてられたお部屋は17畳、寝室にされた控えの間は20畳という広さです。欄間や襖絵なども、二条城の書院とまでは申しませんが、禅寺の方丈にも負けないほどの豪華なつくりです。前田又吉は、ここに美術的な調度品をさりげなく置き、また部屋の仕切りには美しい着物を衣桁にかけて使うなど、日本情緒たっぷりに飾ったということです。ニコライ皇太子が一目で惚れこんだのも、なるほどとうなづけます。

その2・帯勲車夫の浮沈

ニコライ皇太子は事件現場で犯人逮捕に協力した2人の車夫を軍艦アゾバ号に招いています。しかも法被(はっぴ)に股引(ももひき)の車夫姿で来るようにとの指示でした。みずから神聖アンナ勲章を授けるとともに、一時金2500円と年金1000円を与えると告げました。当時の2500円は、今なら2000万円以上だといいます。2人は、日本政府からも、勲8等白色桐葉章と年金36円が贈られました。

事件の時、ニコライ皇太子とジョージ皇子を乗せていた人力車は、前挽き1人、後ろ押し2人の3人挽きで、挽き子は「常盤ホテル」お抱えの車夫たちです。したがって、現場には少なくとも6人の車夫がいたわけですし、それぞれに、津田三蔵の取り押さえに立ち回ったはずですが、向畑治三郎は、犯人の両脚をタックルして倒したこと、また北賀市市太郎は、津田が取り落としたサーベルをとって津田の背中に斬りつけるなど、目覚ましかったため、ほかの4人はすっかり影が薄くなってしまったようです。

警備の巡査より先に犯人とわたりあったということで、ニコライ皇太子やジョージ皇子には、この2人の働きが特に目立ったものと思われます。

それにしても、大金です。政府としては、この2人が、気が大きくなって乱費などして新聞ダネにならぬかと心配しました。向畑はもともと前科がありましたので、毎月25円を生活費として渡し、残りは京都府が管理することにしました。いろいろ事業に手を出しまして、いずれも失敗しています。というよりは、事業を名目に、恩賞金を引き出しては、賭博と女とに使い果たしたというべきかもしれません。しまいには、勲位も剥奪され、みじめな晩年を迎えています。

一方の北賀市は、郷里の石川県大聖寺に戻り、その金で田畑を買って地主になりました。それから独学で勉強もし、9年後には郡会議員に当選しています。ただ明治37年に始まった日露戦争では、ロシアから年金の仕送りを受けているため、露探などと悪態をつかれ、周囲から冷たい目で見られるなど、つらい日々を余儀なくされたりしました。

因みに、ニコライ皇太子は、1896年(明治29年)に即位されましたが日本との間で、利害が対立して、明治37年、日露戦争が起こります。しかも敗退して、国内には革命への機運が盛り上がり始めます。

第1次世界大戦では、戦備不足で敗退が続き、ついに1917年(大正6年)、工場のストライキから革命が勃発し、退位します。翌年、廃帝一家は処刑され、ロマノフ王朝は300年の歴史を閉じたのでした。

その3・川島織物

「常盤ホテル」の用地を前田又吉と競いあった川島甚兵衛も、ニコライ皇太子と深いきずなができた人でした。皇太子は事件の前日、川島織場を訪問して、綴織やゴブラン織の見事さに感心されましたが、ご負傷の慰問にと、明治天皇は、川島織場の大作第1号であった「綴錦犬追物語之図」を買い上げて贈られました。 原図は狩野探幽ですが、明治時代の京都画壇を代表する原在中が、綴織のために筆写して下図としたものです。

犬追物とは、鎌倉時代に武士の間で流行した行事です。縦2.4メートル、横4メートルもの大きな壁掛けです。ニコライ皇太子は、帰国後、この大作を居間に飾られていたと伝えられています。

ニコライ殿下に贈られた壁掛けの下図ニコライ殿下に贈られた壁掛けの下図

革命でニコライ2世が処刑されたため、日本ではそれらの作品の行方がわからなくなっていましたが、最近になって、ソ連の博物館に保存されていることがわかりました。ソ連近代史の研究家で『ニコライ2世の日記』を翻訳された岡山大学の保田孝一教授が、川島織物の要請でソ連各地の博物館を調査して、「犬追物」のほか、当時、川島甚兵衛が献上した等身大の舞妓の人形なども見つかりました。

その4・畠山勇子の自殺

事件から1週間後、京都府庁の門前で、経帷子(きょうかたびら)を着込んだ女性が自殺するという事件がありました。遺書から、ロシア皇太子に日本遊覧をつづけるよう陳情のため、千葉県から駆けつけたところ、すでに神戸へ去られた後とわかり、自ら命を絶って、国難に殉じたものとわかりました。

畠山勇子といい、27歳、政治小説などを読みあさったといい、明治の時代が生んだ新しい女性ともいえましょう。
後に、ラフカディオハーンモラエスなど、日本を愛した外国人が、烈婦として紹介して話題になりました。

ラフカディオ ハーン Lafcadio Harn(1850 – 1904)

イギリス人。明治23年来日し日本女性と結婚、帰化。東大などで英語・英文学の教鞭をとるかたわら日本の「怪談」集など著書多数。日本名は小泉 八雲

モラエス Wenceslao Moraes(1854 – 1929)

ポルトガルの軍人。明治31年神戸駐剳副領事となり日本女性と結婚。日本の生活や風俗を紹介する著書多数。

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