第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

13.大津事件

明治24年5月11日のことでした。京都に2泊されたニコライ皇太子、ジョージ親王は、この日、琵琶湖観光のため、大津に向かいました。滋賀県庁で食事を終えられ、帰途につかれた直後、大津市京町筋下小唐崎にさしかかったところで、沿道の警備にあたっていた巡査・津田三蔵が、人力車で通り過ぎた皇太子を追い掛けるようにして、帯剣を抜いて斬りつけました。これが「大津事件」です。

幸いお怪我は軽くてすみましたが、ロシア皇太子を路上で暗殺しようというのですから、大不祥事です。しかも、犯人が警察官とあっては、政府の重大な手落ちです。

この事件は直ちに、接伴委員長の有栖川威仁親王から東京に打電されましたが、事の重大さに、総理大臣松方正義、内務大臣西郷従道、外務大臣青木周蔵らは急遽参内して御前会議が開かれるという慌ただしさです。とりあえず、明治天皇が京都へ行かれて、ニコライ皇太子をご慰問されることになりました。

当時、ロシアといえば、世界第一の強国ですが、日本はまだ、国際的にも一人前とは認められていない一弱小国です。欧米列強との不平等条約の改正のために、明治維新以来20年、交渉をすすめてきた矢先の、予想もしていなかった出来事です。日本政府はもちろん、心ある国民も、これから先、どんな無理難題が持ち込まれるかもしれないと、とっさに不安に襲われたはずです。ニコライ皇太子の日本訪問については日本を植民地にするため皇太子自らスパイにくるのだとか、いろいろな憶測が流布していたのは事実ですが、日本に到着以来、行く先々で歓待していたというのに、とんでもない狂漢の出現で、日本の国際信用はいっぺんに失われてしまいました。

成り行き次第では、巨額の賠償金はおろか、領土の一部割譲を余儀なくされるかもしれません。しかし、幸い、ニコライ皇太子の冷静な判断と日本によせるご好意、父帝アレクサンドル3世の平和政策のおかげで、最悪の事態だけは避けることができました。当時のニコライ皇太子の日記には、次のように記載されていました。

『ニコライ2世の日記』

●5月11日

慈悲深い偉大な神が助命してくれなかったら、この日の終わりには生きていられなかったであろう。すばらしい1日であった。 朝、目が覚めると午前8時半に人力車で京都から大津に向かい1時間15分後に到着した。人力車夫の疲れをしらぬ忍耐強さに感心した。途中のある村に歩兵連隊が配置されていたが、それは私たちが日本で見た最初の軍隊であった。

到着後、直ちに寺を拝観し、茶わんで苦いお茶を飲んだ。それから山を下りて桟橋に向かった。琵琶湖から山の中に開削した運河沿いに進んだ。これは本当にエジプト的工事だ。桟橋で汽船に乗って唐崎村に向かった。そこの岬には千年物の松の大木と、その近くに小さな神社があった。ここの漁民たちは、私たちの前ですくったばかりのいろいろな魚、鮭や鱒、鯉や緋鯉などを献上してくれた。そこから大津に向かい、小太りの知事のいる県庁に到着した。

純西洋式家屋の県庁内にはバザーが開かれていて、そこで私たちはみな、破産するほどいろいろな小物を買った。ゲオルギオスは竹の杖を買ったが、それが1時間後に私のために大いに役立った。昼食後すぐに帰る準備をした。ゲオルギオスと私は、晩まで京都で休養できるので嬉しかった。

人力車で同じ道を通って帰途につき、道の両側に群衆が並んでいた狭い道路を左折した。そのとき、私は右の顳(こめかみ)に強い衝撃を感じた。振り返ると、胸の悪くなるような醜い顔をした巡査が、両手でサーベルを握って再び切りつけてきた。
とっさに『貴様、何をするのか』と怒鳴りながら人力車から舗装道路に飛び降りた。変質者は私を追い掛けてきた。誰もこの男を阻止しようとしないので私は、出血している傷口を手で押さえながら、一目散に逃げ出した。

群衆の中に隠れたかったが、不可能だった。日本人自身が混乱状態に陥り、四散していたからである。走りながらもう一度振り返ると、私を追いかけている巡査の後から、ゲオルギオスが追跡しているのに気づいた。

60歩ほど走ってから、小路の角に止まり、後ろを振り返ると、有り難いことにすべてが終わっていた。命の恩人ゲオルギオスが竹の杖の一撃で変質者を倒していた。私が、その場所に近づいていくと、私たちの人力車夫と数人の警官が変質者の足を引っ張っており、そのうちの一人はサーベルで変質者の首筋に切りつけていた。
すべての人が茫然自失していた。

ニコライ殿下の負傷の様子
ニコライ殿下の負傷の様子

私には、なぜこのようにゲオルギオスと私とあの狂信者だが街頭に取り残され、群衆のだれ一人として私を助けるために駆けつけ、巡査を阻止しなかったのか理解できなかった。

随行員の誰一人として助けに来ることができなかったわけはわかる。なぜなら人力車で長い行列をつくって行進していたからである。有栖川宮殿下でさえも、三番目であったので、何も見えなかった。

私は、彼らのすべてを安心させるためにわざと、できるだけ長い間、立ったままででいた。侍医のラムバクが最初の手当てをしてくれた。包帯をして止血したのだ。それから人力車に乗った。すべての人が私を取り囲み、前と同じ足取りで元の県庁に向かった。

有栖川宮殿下その他日本人の茫然とした顔を見るのはつらかった。街頭の民衆は私を感動させた。申しわけないという印に跪いて合掌していたのだ。県庁で本式の手当てをしてもらってから、京都からの列車の到着を待つ間、ソファに横になっていた。何よりも私は、愛するパパとママを心配させないように、この事件についてどういう電文を書いたらいいのか、思い悩んだ。

午後4時に、歩兵部隊の厳重な警戒の中を列車で出発した。列車内と京都での馬車の中で、ひどく頭が痛かった。それは傷のせいではなく、包帯をきつく締めすぎたためであった。宿に帰ると侍医がただちに頭部の傷口を塞ぎにかかり、2ヶ所ある傷口を縫い合わせた。8時半にすべてが終わり、気分は爽快であった。

つつましい夕食(病人食)の後に、小さい櫓から吊した氷嚢で患部を冷やして寝た。神の御恵のおかげで、今日一日、万事具合よくすんだ。

日本側の記録はつぎのようになっています。

「明治天皇紀」 明治24年

●遭難の情況

… 中略 … 偶々警備の任にある滋賀県巡査津田三蔵突如走り出で、帯剣を抜きて太子を斬ること二太刀、帽子を剖き、頭部を傷つく、太子匆遽車を捨てて走る、三蔵剣を揮って之れを追ふ、希臘国皇子ジョージ叱咤車を下り、竹杖を揮って三蔵の背を乱打す、太子の車夫向畑治三郎、三蔵の両脚を拿へて引倒す、三蔵剣を落す、希臘国皇子の車夫北賀市市太郎其の剣を執って三蔵の頚と背とを斬る、警官等相集まりて、三蔵を縛す、… 中略 …

太子神色自若たり、従容として煙草を喫し、親王に告ぐるに傷の軽きを以てし、此の些事のために、日本国民が予に示せる厚意を悦ぶの情は毫も変わることなしと言ふ、又加害者は何人なりやと車夫に之れを問わしむ、… 中略 …

●負傷の情況

神戸碇泊露艦の軍医を召して其の手当を受く、其の診断に依れば、太子の傷は右側顳部に2ヶ所の截創あり、一は長さ九センチメートル、深さ骨膜に達す、一は長さ七センチメートル、斜創にして骨に達す、厚さ紙の如き小骨片を出す、又顳動脈及び後頭動脈の支別より出血ありと、… 以下略

天皇は、箱根で湯治していた宮中顧問官の伊藤博文に参内を命じられ、善後策を問われます。博文は、犯人処分について元老や閣僚の意見を聞きますと、裁判官にも両説あって、皇室罰を適用できるとするものと、単なる謀殺罪であるとの意見に分かれており、皇室罪の適用は困難との意見が強いことなどがわかりました。

博文は「罪は重きをもって罰すべし、若し異説百出する如きあらば、戒厳令を発すべし」という強硬意見でした。
明治天皇は、事件発生の翌12日、午前6時30分の列車で京都に向かわれ、伊藤博文も次の列車で後を追います。

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