写真・年表に見る京都ホテル100年の歩み

1941(昭和16)年―1950(昭和25)年

1941
(昭和16)年
  • 2月7日 皇紀2,600年の式典が行われ、宮内省陛下供奉員、来館。満州国皇帝陛下の随員および接伴員、来館
  • 7月 資金凍結令により敵性国家群との相互間の経済断交
  • 12月8日 アメリカ・イギリスに宣戦布告

■旅行制限、ガソリン制限

1942
(昭和17)年
  • 5月 国際観光局を通じ「上海キャセイホテル」管理を委任され、下旬、常務取締役大塚常吉が管理人として現地に出発、6月下旬に副支配人・熊澤正一と接客係・栗原益夫、11月には食堂係・横井信雄、料理係主任・清田戛蔵、料理係・園田太四郎が現地へ赴任

■皇族殿下の用命を多数賜る
■昭和天皇供奉員諸官の宿泊の下命あり

1943
(昭和18)年

■全国のホテルにランク付けがなされ、京都ホテルは1級となる(志賀高原温泉ホテル2級・京都ステーションホテル3級)

1944
(昭和19)年
  • 1月2日 賀陽宮恒憲王・同妃両殿下、同宣憲王殿下、来館

■食糧確保のためホテルマンの苦闘はなはだしい

1945
(昭和20)年
  • 5月 志賀高原温泉ホテル、外務省指定宿舎として借り上げられる
  • 8月15日 終戦。アメリカ第6軍、京都進駐
  • 9月26日 京都ホテルは進駐軍宿舎として接収される
  • 12月10日 志賀高原温泉ホテルが進駐軍宿舎として接収される

■昭和27年の接収解除まで進駐軍宿舎に

1946
(昭和21)年

■ホテル接収

1947
(昭和22)年
 
1948
(昭和23)年
 
1949
(昭和24)年
 
1950
(昭和25)年
 

<1941-1950>

■世相

これほど、激しい変革があった10年は近代日本では他にないのではいか。空襲警報におびえた空、艦砲射撃を恐れた海からやってきたアメリカ人は、鬼畜ではなくよく笑う人間だった。

昨日まで「皇国万歳」を唱えていた大人が今日は「アメリカ万歳」を唱える。子どもたちは黒々とスミを塗られた教科書を手にとまどい、大人達は一層ひどくなった食糧事情に負けまいと必死だった。

その中で「フジヤマのトビウオ」古橋広之進の活躍や湯川博士のノーベル賞受賞は、一服の清涼剤だった。

■流行語
  • 敵性○○
  • 欲しがりません勝つまでは
  • 産めよふやせよ
  • 買い出し
  • 撃ちてし止まむ
  • 転進
  • 学童疎開 勤労動員 学徒動員
  • ピカドン
  • 堪えがたきを堪え
  • 一億総懺悔
  • 進駐軍
  • パンパン
  • アプレ
  • カストリ・バクダン
  • こんな女に誰がした
  • ニューフェイス
  • ヤミ屋
  • 土曜夫人
  • 男女共学
  • 斜陽族
  • サマータイム
  • 老いらくの恋
    (川田順の遺書から)
  • ノルマ
  • 竹馬経済
    (GHQ経済顧問ドッジ氏の発言)
  • つまみ食い
  • オー、ミステイク
  • 鉄のカーテン
  • BG(今のOL)
  • 貧乏人は麦を食え
    (池田首相の失言)

「京都ホテル100年ものがたり」サイト内の内容の全部または一部を無断で複製・転載することはご遠慮ください。