第五部 昭和戦後編 ~感慨無量~ 昭和21年~昭和63年

63.国際文化観光都市

京都は幸いに戦火を免れて、社寺をはじめ多くの文化財が戦災から守られました。そして、洗練された伝統文化は、京都市民の日常生活の中に溶け込んで、根強く生き続けています。おかげで、京都は『日本のふるさと』として、多くの内外観光客を集めています。昭和25年に成立した京都国際文化観光都市建設法、さらに昭和40年の古都保存法、昭和47年の町並み保存条例などは、いずれも、京都の未来図を『国際観光』に求めたものでした。
ここで観光京都の歩みを追ってみましょう。

戦前は、豪華客船による世界一周の外国人観光客を迎え入れるだけの、一方的な国際交流でしたが、戦後ともなりますと、日本人の生活水準が向上したこともあって、海外渡航熱が盛んになります。
昭和33年に結ばれた京都・パリ友情盟約宣言に始まる姉妹都市盟約は、さらにひろがり、ボストン(アメリカ)、ケルン(ドイツ)、フィレンツェ(イタリア)、キエフ(ウクライナ)、西安(中国)、グアダラハラ(メキシコ)、ザグレブ(クロアチア)、プラハ(チェコ)と現在では9都市との間で国際交流の実をあげています。

昭和36年頃から始まった民間航空会社の大型機による大量輸送で、海外渡航が容易になり、昭和39年には、日本人の海外渡航も自由化されました。伊丹空港は、近畿の空の玄関として大阪国際空港に衣替えをし、地方空港の整備もすすんでいきました。

昭和39年には東京でオリンピックが開かれました。

昭和45年、大阪で開かれた万国博覧会では、期間中「京都ホテル」の宿泊客は97%までが外国人でした。東海道新幹線の開通やホテル業界の増改築競争などの効果だといえましょう。

しかし、昭和46年のドルショックを境に、外国人観光客の減少傾向が始まり、ホテル業界は方向転換を余儀なくされます。積極的に日本人旅行客の誘致を考え、地元市民に利用を呼びかけるようになりました。

市民生活にも変化があらわれます。生活の近代化です。

とくに注目されたのは、モータリゼイションの普及です。道路の整備で大型観光バスの利用が増え、レクリエーションとしての観光旅行が盛んになります。
昭和38年の名神高速道路、昭和44年の東名高速道路の開通で、ハイウェイ時代を迎えました。京都観光にもマイカーの波が押し寄せ、駐車場の確保が難しかった京都市がマイカー拒否宣言をする始末でしたが、なかなか効果をあげるところまではいきませんでした。
また、これと平行して、昭和50年には山陽新幹線が博多まで開通するなど、西日本の観光開発が進展していきました。

京都市も、観光客誘致に種々の対策を打ち出しました。
京都の夏を代表する観光行事の祇園祭では、昭和31年に、山鉾の巡行コースを道路幅の広い御池通りに変え、観覧席を設けるなど、古い伝統をもつ神事さえも観光行事化に踏み切るというホームランを放ちました。さらに昭和41年には、前の祭りと後の祭りを統合して1日で済ませる改革も実現しています。
これで、春の葵祭・夏の祇園祭・秋の時代祭の京都3大祭りが、いずれも御池通りを中心に展開されることになりました。

祇園祭山鉾巡行をご観覧のアルゼンチン共和国アルフォンシン大統領(昭和61年当時)祇園祭山鉾巡行をご観覧の
アルゼンチン共和国
アルフォンシン大統領(昭和61年当時)

おかげで、河原町御池角に建っています「京都ホテル」は、お祭り見物の一等地となりました。ホテルのベランダから山鉾巡行のみどころのひとつ、鉾の方向転換をじっくり見物できるというので、早くから予約される方もおられました。また予約はされなくても、2階のラウンジは全面がガラス張りでしたので西南に面したコーナーに当日は椅子が並べられて無料の観覧席となりました。
3大祭りの観覧席は「京都ホテル」の年中行事になりました。

夏の年中行事としては、屋上庭園のビアガーデンがありました。いまでこそホテルだけでなくちょっと高いビルではビアガーデンを開くところが増えていますが、これは「京都ホテル」が最初に始めたものです。そのハイライトともいえるのが大文字の送り火でしょう。ネオンが消えた京都の夜空を背に、如意ヶ嶽を先頭に五山に火文字が浮かびます。わずか半時間ばかりの火の祭典ですが、次第に消えてゆく「大」の字に、ふと感傷的になる一瞬でもあります。

観光シーズンの冬枯れ対策として、「京都冬の旅」が始まったのは昭和42年でした。大変好評で、さらに「京都夏の旅」もうまれて、ともに年中行事として定着しました。日ごろは拝観が許されない社寺などを中心に、特別拝観の機会ができて京都観光にいっそうの奥深さが生じたといえます。これまた、京都市の観光対策の大ヒットといってよろしいでしょう。
もっとも観光税の徴収では京都市と反対社寺とが対立して、昭和30年と昭和61年の2回、有名社寺の拝観ストがあり観光京都のイメージをダウンさせてしまうなどの不手際もありました。

昭和45年に大阪で開催された万国博覧会では、3000万人に近い入場者があり、その半数の1300万人が京都にも足をのばしています。昭和48年と昭和54年の2度にわたるオイルショックで物価が高騰するという波乱もありました。シーズンオフ対策のひとつとしてホテルが宴会のセールスや外食部門に力を入れるようになります。また、大学入試の受験生が冬枯れ対策として登場し話題となりました。

ホテルには、もうひとつ年中行事がうまれました。豪華なクリスマスイブです。「京都ホテル」が昭和43年に、歌手のロミ 山田さんを招いて豪華なショーを企画したのが最初でした。それ以来、毎年人気歌手とともに祝うクリスマスの催しが各ホテルで開かれています。
この種のディナーショーはクリスマスに限らず、随時開かれるようになりましたし、夏のひとときを、ご家族で楽しく過ごしていただく「京都ホテル夏まつり」も昭和50年に始まりました。

京都国際文化観光都市建設法

昭和25年、戦後の京都再建を目的に制定された法律。緑地地域の指定(昭和30年)や京都会館の建設(昭和35年完成)が行われた。

古都保存法

古都の歴史的自然環境を乱開発から守るために、京都・奈良・鎌倉の3市を対象として昭和40年に制定された法律。
歴史的に意義のある自然や文化財集中地を歴史的風土保存地区に指定して保存計画を定め、樹木の伐採や開発行為を制限するというもの。なかでも枢要部は特別保存地区として現状の変更が禁止される。
たとえば京都では、醍醐・泉涌寺・清水・大文字・上賀茂・嵯峨野・嵐山など12地区、約1,473ヘクタールが、その対象となっている。

町並み保存条例

昭和46年、町並み保護を目的に制定された景観条例。
翌年、東山区の産寧坂地区が特別保全景地区に指定された。この条例では、計画的な復原や整備が行われるのではなく、住民からの増改築の申請を待って、指導・助成を行うという方法がとられる。
昭和50年の文化財保法の改定に際しては重要伝統的建造物群保存地区が定められた。京都では、産寧坂・祇園新橋・嵯峨鳥居本の3地区がその対象となっている。

マイカー拒否宣言

昭和48年11月に京都市が出したマイカー観光拒否宣言。
昭和40年代に入ってからマイカー観光客の入洛が急増、騒音や排気ガス、交通事故、さらには歴史的自然環境の破壊などの数々の悪影響が出てきたため、自家用車に観光の抑制が訴えられた。

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