第三部 大正編 ~平穏無事~ 大正初年~大正15年

40.家族の和

大正8年12月8日、「京都ホテル」の井上喜太郎が永眠しました。新聞では、夕刊で簡単にその死を報じ、翌日の朝刊には写真を載せました。

京都ホテル主人

京都ホテル主人井上喜太郎翁は予ねて病気の処薬石効なく八日午後五時死去。享年六十七歳。十ニ日午後一時、小松谷正林寺に於て葬儀を営む由。翁は肥前島原の人、明治十ニ年、令兄井上万吉氏と共に上京し、円山に也阿弥ホテルを経営し、二十六年、河原町常盤ホテルの窮境に陥るや、之れをも兼業したるが、其後也阿弥ホテルの焼失するや、常盤ホテルも京都ホテルと改称して、京都第一のホテルとして今日の成功を致したるものにして、廿七八年役の当時は同ホテルは山県公以下の宿舎と為って、一時、参謀本部がこヽに移りたる観あり、御大典当時十七ヶ国の外国使臣の宿舎を承はりて、満足を得たるが如きは、世人の記憶新しき処なり。

<大正8年12月11日「日出新聞」>

少しさかのぼって明治43年のことですが、日出新聞が、人物紹介の「京名物」欄に井上喜太郎をとりあげています。ライバルの「都ホテル」の西村仁兵衛が、いかにも華やかで、つねに智と策を以て拡張をつづけているのに対して、「京都ホテル」の井上喜太郎は、着実と堅忍の一点張りで、今日の地位を築いたといえます。

京名物(八十一)

京都ホテル主 井上喜太郎氏 也阿弥ホテルが祝融の災に罹って倒れた後の京都ホテル界の分野は、京都ホテルと都ホテル対峙の時代となった。
・・・中略・・・

漸次に拡張と改良を企て、其が大当りとなって、最近数年間にメキメキと繁昌し、遂に今日の如き行人の眼を聳てしむる輪奐宏壮の建築を完成し、百人以上の使用人を指揮して、毎年数万円の外帑を吸収する大事業を成功するに至ったのである。
・・・中略・・・

虚飾や策略は大嫌ひ、大のバンカラで、洋服なども滅多に用いぬ素朴な風采は、一寸見には、大ホテルの主人公とは請取れぬ位、黙々として多くを語らず、何事も数理的の不言実行主義で、根気と辛抱で押し通すと云ふ其変った所に君の本領が発揮されている。

<明治43年7月2日「日出新聞」>

「京都ホテル」は敷地が広かったこともあって、社長の井上喜太郎、養子の井上武夫をはじめ、支配人、コック長、その他、主だった人たちは、みなホテル内の北側の一角に、集まって住んでいました。
北側には初めから日本館がありました。ロシア皇太子がお泊まりになり、明治天皇がお見舞いをされましたのは、この最初の日本館でした。これが取り壊され、すこし北側に下がって、二代目の日本館が建ちました。
その際、ロシア皇太子ゆかりの2つのお部屋は南側のレンガ館に移されています。このレンガ間も改装されたため、日本間は、井上家の菩提寺である安養寺の書院として、再び移築されて現在に至っています。
二代目の日本館は、日本食の宴会などに使われたり、客が立て込んだ際には、客室にも改造されました。
一時は外部の団体に、事務局として一部を貸したりもしています。

しかしだんだん使われなくなったため、井上社長がここに住むようになりました。日本館の北側に、さらに平屋の社宅が幾棟も建てられて、そちらは従業員たちが住みました。しかも社長や支配人など、主だった人たちは、互いに縁組などもしましたため、ほとんどが親族・縁者たちの集まりと言ってよく、いわば、「京都ホテル」で働く人たちは、上から下まで、井上ファミリーの一員のようなものでした。
職場と住宅が一緒でしたから、勤務はまるで24時間制みたいなもので、何か問題が起こると、すぐに全員が集まって処理することができるなどの便利さもありました。そんな家庭的な雰囲気の中から、お客さまへのサービス精神なども培われたものと思われます。

大正期のホテルの全景を、皆さんの思い出をつなぎながら、鳥瞰図にしてみました。正面は河原町通りに面しています。裏門は南側の高瀬川寄りにあって、黒い門であったようです。
正門から東に石畳になっていて、その先が円形の池と築山になっていました。池にはハイカラなローマ風の噴水がありました。この噴水は、保存されていて今もホテルの南側に飾られています。
築山がもうひとつ、南の洋館の前にありました。写真を見ますと、この庭には、大仏さんや、日本武尊の像などがおかれていました。これらは現在は見られません。

池をぐるりと回れば、本館です。1階はフロント、ロビー、大小2つの食堂、男女別々になった談話室、女性の談話室にはピアノがありました。
本館の2階は貴賓ののための豪華な特別客室のほか、一般客室になっています。本館の裏手は本格的な日本庭園で、ひょうたん池には、鯉が泳いでいました。水は、すぐ横を流れている高瀬川から取り入れています。
したがって、当時、「京都ホテル」の敷地は、河原町通りから高瀬川まで広がっていたのでした。なお、東北の一角が蹴こんでいます。最初、勧業館の払下げをうけた時は、正方形の敷地でしたが、鬼門をさけるために、早い時期に手放したといわれています。ここには尼寺が建って現在に至っております。

本館から、南の別館へは、渡り廊下を伝って行けます。途中に、調理場と大きな浴室がありました。別館の間取りなどは、ほとんど記録が残っていませんので、詳しい事はわかりません。
反対側の日本館は、前述のように社長が住み、その北側は社宅です。
ホテルの庭は、子供たちにとっては格好の遊び場で、正面の石畳のあたりは、野球さえもできました。喜太郎は、大変子供好きで、誰かれの区別なく、よく子供たちの面倒をみたようです。子供たちみんなを集めて、しばしば一緒に写真を写したものです。夏は毎年、子供たちを人力車や自動車に乗せて海水浴につれて行きました。
また年の暮れには、社長のいた日本館で、従業員の家族みんなで餅つきをするのが恒例の行事でしたが、子供ごころにも、楽しい思い出であったと、関係者が語っています。

大正8年

この年、第1次世界大戦の後始末としてベルサイユ会議が開催され、日本も参加。世界の「一等国」に仲間入りしたという自負が、人々の心をくすぐった。一方朝鮮・中国では、反日運動が高まりを見せ、国内でも米騒動の余波が普選運動、労働運動に発展していく。京都では、尾崎行雄を迎えての普選要求デモ、京大経済学部の設置など。

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