第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年

26.「也阿弥ホテル」の火事

明治32年3月25日、「也阿弥ホテル」から火がでて、またたくまに、4棟の建物が焼け落ちました。急斜面を利用して、4階建て、3階建ての棟が並んでいる上、水の便も悪く、2階建ての1棟がわずかに残っただけでした。建物で6万円、什器その他を合わせると10万円を下らない損害です。

すぐ北に隣接する知恩院の本堂に火が移ったとの噂がとんで、府庁・市役所・警察は、非番の者も総出で警戒にあたるという大騒ぎでした。
夜も遅くなって、方丈の東手の杉の古木がくすぶり始めましたが、大事には至りませんでした。
ほかに、やや離れた場所でしたが、粟田や青蓮院や蹴上の吉水園にも飛び火しました。いずれも、すぐに消し止めています。

●円山也阿弥楼の出火余聞

一昨日円山也阿弥楼の出火については、既に前号に詳記せしが、尚聞く処に依れば、出火の原因は目下取調中なるも、橋廊下の北側なる四階建ての屋上に出たる煙筒より煤煙の二階廊下々なる二三四号の客室に落ちて、夫より燃え上がりたるなるべしとの説、信に近く、コック部屋は裏手にあり、大分隔たり居れば、同部屋より発火せし形跡なしと云ふ。

焼失棟数は四階建て一棟百五十坪余、同一棟百坪余、三階建て一棟百二十坪、二階建て一棟百坪余、コック部屋一棟が十五坪、土蔵一棟五十坪、納屋、便所、その他三棟五十坪余にして、橋廊下の南館になる元正阿弥跡の二階建ては廊下を切断したる為に焼残りたり。
・・・ 以下略 ・・・

<明治32年3月27日「日出新聞」>

●外人の感謝

過日、也阿弥楼の出火に際し、宿泊の外人は衣類を焼かれ携帯品を失ひ、何れも多少の損害を被ぶらざるはなかりしも、警官、消防夫は素より家人等は必死と為りて消防に努め、特に家人は当然の事とは云へ、自家の財産を見向きもせず、只管、宿泊人の荷物を搬出することに努めたるは、甚だ感ずべき事なりとて、其後京都ホテルへ引き移りたる英国人イヴハン・ボーウエル氏等首唱と為り、当時泊まり合わせたる人々と協議の上、金百円を醵金し、之に感謝状を添へ、一昨夜也阿弥楼及び警官、消防夫への見舞及び慰労として贈りたる由。

尚、ボーウエル氏は欧米諸国に於いて火災に遭遇したるも、今回の如き警官、消防夫等の必死の働きを見たることなしとして、甚く満足を表せりと。

<明治32年3月28日「日出新聞」>

焼け出された外国人観光客は22人でしたが、死傷者はありませんでした。全員が「京都ホテル」に移ったため、たちまち満室となり、あわてて日本館に臨時の客室を造作して、収容しています。
幸い、一棟だけは焼け残りましたので、「也阿弥楼」は、細々ながら営業を続けることが出来ました。しかし客室の再建にはいろいろと横槍が入って難航します。

まず、借地期限の延長問題がでました。防火建築にすることが求められましたが、これには建築費用がかさむという問題がからみます。さらに、公園内で「也阿弥楼」が営業していたこと自体を快く思っていない人たちが、日出新聞の社長、浜岡光哲をはじめ、地元の有力者の間に少なくなかったため、敷地期限延長反対という火の手があがりました。

とくに、日出新聞は、火災直後の3月28日付けの紙面に、「京都の旅宿業」と題する森烏城の署名記事を掲載して、「也阿弥ホテル」を名指しで批判すると共に、名実備わった一大ホテルを建設せよと提唱していますし、翌日の記事で、有力者たちが集まり、その具体化を協議することになったと、次のようなニュースを流しました。

●京都大「ホテル」設立の計画

浜岡光哲、内貴甚三郎高木文平、雨森菊太郎等の諸氏は、此度、京都に完備せる一大「ホテル」を設立せんとの計画にて、今二十九日午後六時より京都倶楽部に会合し種々協議する筈なりと云ふ。

<明治32年3月29日「日出新聞」>

●「ホテル」に関する協議

本紙に記載せし如く京都市有力者の間に協議中なる「ホテル」の事は、発起人中他に要務あり、未だ決定に至らざりしが、本日午後五時より京都倶楽部に於て発起人会を開き協定する筈なりと云ふ。

<明治32年6月13日「日出新聞」>

浜岡は日出新聞の社長であっただけでなく、京都織物など有力な企業の設立に関与しており、京都商工会議所会頭・衆議院議員も経験しているなど、京都の正解・財界を牛耳っていた人物ですし、内貴は初代の民選京都市長で、浜岡と共に多くの会社の役員を努めていました。

高木は京都商工会議所の初代会頭で、当時は京都電気鉄道の社長でした。雨森は日出新聞の副社長で、当時は衆議院議員でもありました。
一方、「也阿弥楼」を代表して、貿易商の高島屋・飯田新七らが、ホテル再建の計画書を内貴市長に出しました。木造の3階と4階の建物を焼け跡に建てることと、土地の借用年限を延長して欲しいというものでした。
これに対し内貴市長は、木造では断じて承認できない、知恩院などに延焼のおそれがないよう不燃質の材料を使い構造もけ堅固にするならば、土地の借用期限は20年でも30年でも認めようと、ホテルの再建に条件をつけました。

これをうけて、「也阿弥」側から、次のような新しい設計書が出されました。
① 敷地2090坪、建坪300坪とする。
② 建物は3棟で、屋根に破風をつけた純日本家屋とする。
③ 建物の高さをそろえる。
④ 外部はすべて耐火煉瓦を使う。
⑤ 庭に2ヶ所の防火用水を兼ねた泉池を設け噴水をつくる。
⑥ 土地の借用期限を25年にする。
最後までもめたのは土地の借用期限でした。「也阿弥」側の主張は、市の条例では5年と決められているが、それでは不安なので、25年にしてほしいと、強硬な態度でした。

内貴市長はホテルのために条例を改訂することは難しいから、5年ごとに延長を認めることでどうかと、譲りません。

それまでホテル側は、飯田新七らを代表者にしておりましたが、これではラチがあかぬとみてか、32年10月、井上万吉みずからが、一個人の資格で、焼け跡にホテルを復活したいと、出願しました。
しかし、「防火上の設備不完全」としてはねつけられてしまいます。火災から半年たって、振り出しに戻った形で、以後しばらくは、ホテル再建の交渉は中断しています。

●ホテル建築不認可

円山也阿弥楼焼け跡に大ホテル建築の計画は、遂に立消と為りしを以て、同楼主人井上万吉は更に一個人の事業として、右焼跡に再建せんとし、京都市の許可を出願したれば、昨日の市参事会に於て之れが拒否を議せしに、其設計に依れば知恩院に接する一棟のみは不燃木材を以て建築するも、其他は一切木材を以て建設せんとするものにして、曩に市参事会が示したる条件に抵触し防火上の設備不完全なれば、断然許可せざることに決し、直ちに市長より其旨を指令したる由。

<明治32年10月7日「日出新聞」>

このように「也阿弥ホテル」の再建が遅れている間にも、京都のホテル事情は大きく変わろうとしていました。

一つは、神戸の外資系の「オリエンタルホテル」が京都進出をはかって、東山の太閤坦に用地を確保したものの、地元の協力が得られず、工事着工が出来なかったこと。
そして、もう一つは、蹴上の吉水園が「都ホテル」に衣替えして、井上兄弟による京都のホテル業界独占にクサビが打ち込まれたこと。
三つ目は、京都の政財界を指導していた有力者たちが、かつての「也阿弥楼」の経営に不満を持ち、改革を求めていたこと。
そして、それが当時の京都市民の世論でもあったという事でしょう。

情勢の変化に井上万吉もついに折れました。1年後の33年9月に、「也阿弥ホテル」が、次のような新しい設計を京都市に示して、こんどはすらすら再建の許可が下りました。市の要求を殆ど全面的にのんだからです。
① 資本金30万円の株式会社を設立して経営にあたる。
② 借地期限は5年とする。
③ 第1号館(4階)は上部2層の外面を日本造、下部2層を煉瓦造とする。
④ 第3号館(3階)と厨房とは煉瓦造とする。
⑤ 第2号館のほかの木造の建物は塗り家とする。
⑥ 知恩院との境界には12間以上の空き地を残す。
⑦ 路上に架けた渡り橋は、当分認めるが、公園の拡張整備などで必要な場合には撤去する。

京都市の許可が下りた後でも、「也阿弥」の再建には反対の声が相次ました。とくに円山公園の中にホテルの建設を許すと、将来、公園の拡張整備の際に障害になるという意見でした。
公園問題というタイトルで、日出新聞は、しばしば識者の意見を載せました。その反対論を代表するのが、当時の京都の政財界を牛耳っていた有力者たちでした。

●也阿弥ホテルと市内有力者

京都貿易商の人々は、曩に也阿弥ホテルの再興を市長に出願し、市参事会は既に之れに対して許可を与えしが、当市の有力者は、過日来、協議の末、以前の也阿弥ホテルの如きものを設立されては、京都市の対面にも関することなれば、有力者の之れに干与し、株式を持ち、其内より重役をも挙げて、監督の任に当たり、完全のホテルとなさんとの計画にて、有力者中より田中源太郎、浜岡光哲、大沢善助、村井吉兵衛、市田理八の五氏を挙げて発起人たらしむることとし、既に承諾を得たる由。

<明治32年11月8日「日出新聞」>

●ホテル建設の相談

当地の実業有志者中には、予て一大ホテルを建設せんとの計画あり、一昨日京都倶楽部に集会を催し、右に関する相談を為したり。
・・・中略・・・
大沢善助氏は、目下当地において一大ホテル建設の必要あれば、其資本金は貿易商人より三分の一、也阿弥より三分の一、市内実業家中公共心を有し、株式売買等投機を為さゞるものより三分の一を引受けしむることとし、三十万円の株式組織とし、其半額十五万円を払込ましめ、欧州風に流れず、日本の美風を存するの構造とし、円山に建設せんとの趣旨を述べて、賛成を求めたるに、一同賛成の意を表し、兎に角営利を専らとせず、公共心を以てことにあたることとし、当日の出席者は少数なりしを以て、尚ほ発起人たるべき人を増し、不日更に集会を催し相談することとし散会せし由。

<明治32年6月10日「日出新聞」>

結局、有力者たちの構想に従って、株式会社「也阿弥ホテル」の創立総会が開かれるのは、明治34年5月となります。社長には大沢善助が就任し、井上万吉は、専務のポストは確保しますが、実権は失ってゆきます、
しかも、明治38年、「也阿弥ホテル」は再び出火して、今度は全焼しましたが、二度の不祥事がたたって「也阿弥ホテル」は再建が許されず、ついに姿を消すことになります。これについては稿をあらためて紹介することになります。

10万円

ちなみに先の京都電気鉄道株式会社が資本金30万円だったという。

浜岡光哲(1853−1936)

京都実業界の大物。京都商業会議所(明治24年改称)会頭も経験。明治12年合資商報社を設立し「京都新報」発刊。18年から京都日出新聞(京都新聞の前身)社主。関西貿易合資会社社長。明治23年の第1回衆議院議員選挙で中村英助と共に当選。初の京都選出国会議員となる。

内貴甚三郎(1848−1926)

呉服問屋「銭清」の長男。京都株式取引所。京都商工銀行、京都織物株式会社の設立発起人。京都市の初代民選市長。実業界及び公共事業の先覚者であり市政推進に尽力。

高木文平(1843−1910)

北桑田群の豪農出身。京都商工会の重鎮。40歳で京都商工会議所の初代会頭(明治15年設立)となる。疎水建設に尽力し、明治21年田辺朔郎と共に水力利用視察のため渡米。京都電気鉄道株式会社の発起人、社長。

公園の拡張整備

円山公園の誕生は明治19年。有名な枝垂れ桜は、明石博高が明治5年に五両で買ったもので、あやうく印鑑の材となるところだったという。なお、今のような円山公園が整備されたのは、大正3年である。

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