第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年

25.弁天合資会社

明治31年3月に、京都の貿易商・刺繍業者・骨董品店・ガイドなど外国人相手の業者の一部が相寄り、「京都ホテル」「也阿弥楼」の出資を得て、弁天合資会社を設立しています。
当時、貿易商といわれた人たちは、舶来品の売買もしましたが、入京の外国人観光客に、日本の土産品を斡旋するのが、主たる業務となっていました。
したがって、ホテル・貿易商・外国人に好まれた刺繍や骨董品その他の土産品店、そして客を案内する通弁たちは、それぞれ利害を共にする関係にあります。
さらに広く考えますと、そのような観光産業の関係者たちが、外国人観光客の印象をよくすることによって、外国人の宿泊日数や買い物の金額が増えることになり、京都市の経済にも影響するというわけです。

ところで、井上兄弟が京都の二大ホテルを独占したところから、日ごろ両ホテルと親しい関係にあった貿易商らは、ホテルや通弁とタイアップして、営業の独占をはかるようになります。
一種のカルテル協定と言えましょう。それが互いに合資会社で結ばれますと、会社に入らぬ業者や通弁を締め出すことになって、業者間の系列化が始まるのは、自然の成り行きであったともいえます。
たとえば通弁は、ホテルに宿泊の外国人と会うためには、ホテルに声をかければ、自由に外国人の部屋に出入りできたものが、ホテル側は系列外のガイドは宿泊客に会わせないなどの妨害が始まりますし、商店も外国人を案内してきたガイドが系列外であれば、店内に入ることを渋り始めました。

それまでガイドは、客を案内するだけでなく、土産物の代金の一割ほどをリベートとして受け取る商習慣がありましたけれど、店内に入れないとリベートがもらえません。したがって、横浜や神戸のガイド達にとっては死活問題でありました。
このような業者間の確執が目に余るとして、新聞もこの問題を取り上げています。

●京都貿易商の競争(上)

京都の貿易商重に刺繍及び骨董品などを来遊の外国人に売り込み或は海外の注文に依り御売するものは其数敢て多からず格別の競争もなかりき。然るに本年3月、貿易商の一二と通弁中の重なる数名と也阿弥及び京都ホテルの主人等が出資に依りて資本金廿五万円の弁天合資会社なるものが新門前通小堀西入町に設立されしより表面は兎も角裏面の競争は激甚と為り、互いに反目の嫉視の姿あり。
左に双方が言ふ処を記さん。
・・・以下略・・・

<明治31年7月8日「日出新聞」>

この記事では、一般貿易商の言い分として、「ホテルの主人が自己の出資会社の利益を計らんとする、人情の然らしむ処とは云へ、京都を愛するといふ観念の充分ならんには、ホテルと弁天会社とは全く別物として、一般貿易商人に対し極めて公平なる取扱ひをなすを要す」と求めています。

これに対して弁天合資会社側は、「抑も同社の設立たる通弁をして身後の計を立てしめんとするに基因したるものにして、換言せば両ホテルの主人は、平生出入りする処の通弁を愛護せん意に創まり、先ず通弁の余財を投ぜしめ、両ホテルの主人及び貿易商は之れを助けたるものなり」と、突っぱねています。

続いて第三者の立場から、「其双方が云ふ所を聞けば、互いに一理あり。故に予輩は暫く是非の判断を世人に一任し置き、茲双方に向かって聊希望を述んとす」として、新聞社の主張を展開しています。

貿易商が互いにいがみあっていると、外国資本が乗り込んできて、日本側は貿易商もホテルも外資には歯が立たず敗退することになろうという趣旨です。しかもそれが、単なる杞憂ではなく、神戸には外国人が経営する「オリエンタルホテル」があって、日本のホテルは圧倒されているし、さらに京都への進出を狙って、東山の豊国廟のあたりにホテル新設の用地を探していると、警鐘を鳴らしています。
その「オリエンタルホテル」の京都進出は、翌年に具体化することになりますが、いましばらくは、京都の側の動きを追ってゆくことにします。

なお弁天合資会社は、後に本拠を横浜に移しましたが、このような業者の対立は常に底流として残り、いろいろな形であらわれました。

外国資本

この翌年、明治32年は、条約改正による外国人の内地雑居が始まる。特に外国資本の進出に対して論議は賑やかであった。

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