第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

10.フェノロサ夫妻

フェノロサ夫妻フェノロサ夫妻

話は少し飛んで、明治29年になりますが、日本美術の海外紹介に大変功績のあったフェノロサが、新妻とともに京都で1ヶ月ほど、二条橋詰めの「常盤」を借りて住みました。

フェノロサは、明治11年、お雇い教師として東京大学に迎えられ、政治・経済・哲学などを教えるかたわら、日本の美術の独自性を高く評価して、日本美術の復興を指導しました。岡倉天心とともに東京美術学校の創立に参加しています。12年間滞在して、いったんアメリカに戻り、ボストン美術館の美術部長として活躍しました。明治29年に再び、新妻メアリーさんをつれての来日なのでした。

メアリー夫人は詩人でもありました。大変詳しい日記を書いております。京都大学の村形明子助教授がその日記を翻訳され、昭和56年から京都新聞に『フェノロサ夫人のニッポン日記』として連載されました。夫妻が京都に住んだ借家を、メアリーは日記の中で「トキワテイ」と呼んでいます。別の作品に『トキワテイからの眺め』があり、2階の縁側から周辺の様子を描写しておりますが、それによっても、「トキワテイ」は明らかに「常盤別荘」であったことがわかります。

日記からは、詳しい間取りまではわかりませんが、純和風の2階建てで、2階を二人の寝室と居間に、ボーイたちは階下に寝泊まりしています。家賃は100円でした。『トキワテイからの眺め』の一部をご紹介します。

2階正面全部と両側面に半分ほど走る3フィート幅の縁側に座って、まっすぐ東を向くと、まず目に入るのはわが家の庭……左手はきれいな茶室、右手は高い板塀と四角に刈り込んだ同じ高さのまばらな生垣でしきられている。
庭自体は真価を発揮するにはまだ新しすぎる。地面には粘土が目立ち、庭石とこけ、4基の石灯籠はまだしっくり周囲にとけ合ってはいない。何種類もの喬木や灌木、20フィートもある松木立、楓、1種のモミ、ひょろ長い杉と勢いのよい桜、梅、たくさんのツツジ、ハギ、私が名を知らない多くの常緑樹。

最大の魅力は鴨川からひいた遣り水で、庭の中心部に島を作り、お勝手の入り口の外で急流となり、垣根の下をくぐって隣の粉屋の水車を回している。この流れがあるために、いつ見ても絵画的な小アーチ形の石橋が幾つか必要になり、又早瀬が曲水に変わり、川幅最大の淀みを作っている部分を渡るのに大きな踏み石3基が必要なのだ。

残念なことに、この庭の境界には塀があって視界を遮っているが、鴨川は川幅が広いため、塀の上方になお青い流れの一部が細長く見えている。灰色の河原で、染物屋の老人が果てしなく長い帯状の木綿布をさらしている。その向こうには、川面より数フィート高い小さな堀り割りに沿って草の茂った土手、そして堤防の灰色の石垣がある。

堤防の上には、今を盛りの見事な柳並木が白い小路に影を落とし、ペンキをぬっていない黒ずんだ2階建ての瓦ぶきの低い家並みを、半ばおおい隠している。私たちの家のほとんど間正面にあたる所に傘屋があり、白い縞模様の入った見苦しい赤い柄なしの洋傘の看板が掛かっている。終日、紺の着物姿の日本人、クーリー(苦力)の引く重荷を積んだ長い二輪車、威勢のよいジンリキシャ、こざっぱりした警察官、竿に籠を二つ抱えた行商人、散る花びらのような子供たち、それに時たま冒険好きの外国人が、好奇の目でつきまとう群衆を従えて通る。

夜になると、人力車の提灯が飛ぶように揺れ、小さな店々の灯が静かにまたたく。少し右手に二条橋があり、これを渡った反対側のたもとに立派な寺院が破風のある屋根を連ねている。狭い街路や柳並木、黒ずんだ小さな家並みの上には、悲しいかな、むくつけき煉瓦造りの工場の煙突がそびえている。その向こうに去年の博覧会場だった玉ねぎ形の塔が2つ、少し右手には中国風の美術展覧会の建物が、赤の緑にきらめいている。

これら世俗的景観の彼方に、真の美が立ち現れる。
………こんもり繁る木立の中の古塔や伽藍の屋根、山腹をよぎる紫の陰り、屋根の松の細やかなシルエット、山頂の「大」文字やそこかしこに斑点のように光る赤い粘土の地肌、そして左手にそびえる比叡山。

すべての上に君臨する光と影、霧と雨と暁とたそがれの魔術………ここから、朝日は黄金の林を掲げ、京都の街に光を降り注ぐ。ここから円い月………夜のむらさきの袖をかざる銀白色の紋、とび交う星の矢のさ中に閃く盾………が昇る。千変万化の様相を示しながら、永遠の稜線を誇るこれらの山々は、京都の栄光であり、その昔の栄華の砦なのだ。

南側の縁側から見ると、瓦ぶきの小屋根の下は敷地の端の部分と遣り水で、醜い黒塀と高い生垣、その向こうの空き地と二条通りしか見えない。この空き地が私たちの家の両側面を開放し、風通しをよくしているのだ。

明治20~30年頃の市電風景
明治20~30年頃の市電風景

二条通りには、橋から約50フィートの所に電車の終点があり、10分から15分ごとに電車………屋根は白く、ガラス窓のついている両側面が青い………が止まる。
手旗をもった半裸の少年があたふたと駆けまわり、降りた乗客は道を急ぐ。白い軍帽と手袋に紺のフランネルの制服姿の車掌と運転士は、電気レバーを電線から引き下ろし、方向転換してからそれぞれの持ち場に飛び乗り、チンチンと鐘を鳴らして、再びすベるようにして行く。

<『フェノロサ夫人のニッポン日記』>

前田又吉が力をいれていた「常盤」の庭が、メアリーには気に入ったようです。

フェノロサ夫妻

Earnest F.Fenollosa(1853 ~ 1908)
アメリカの哲学者・美術研究家。明治11年来日、美術学校創設など日本画復興に助力。明治17年、19年の入洛は京都の若い画家に、大きな刺激を与えた。

立派な寺院

おそらく頂妙寺か。(左京区仁王門通新麩屋町西入ル)日蓮宗本山。

玉ねぎ形の塔

明治28年岡崎で開かれた第4回内国博覧会後、施設の一部であった美術館(神宮境内東南)、岡崎町博覧会館(岡崎グランド)が残され、その後も種々の展示場として利用された。

電車

博覧会場見物客輸送のために京電(のちの市電)が敷設された。当時の路線は七条停車場−木屋町二条−南禅寺、木屋町二条−新丸太町−府庁前−堀川中立売、七条東洞院−東洞院塩小路、塩小路高倉−中書島。 運賃1区2銭。速力は約10キロ。

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