第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

9.「常盤別荘」

前田又吉は、勧業跡地に大ホテルを建てるのに先立って、明治21年、まず二条橋西詰め上ルの地に、旅館「京都常盤」をつくっています。

神戸の諏訪山や宇治川に建てた「常盤桜」「常盤花壇」などは子供たちや一族にまかせて、自分は京都で隠居がてら旅館を経営するつもりではなかったかと思われます。それが完成するかしないかの翌22年から、大ホテル建設という新たな事業に手をつけました。
結局、前田は京都で、二条通りの北側、二条橋詰めに「京都常盤」、二条通り下ルの河原町通りに面して「京都ホテル」と、目と鼻の先の場所に2つの旅館を経営していたことになります。

「京都ホテル」は、新聞などでは「常盤ホテル」と呼ばれていましたが、時には、両方とも「常盤」と略して呼ばれることもあって、しばしば混線しています。

まず、「京都常盤」の方から見てまいりましょう。前田は京都府庁に提出している文書には「京都常盤」の角印を使っていますので、これが正式の名前であったと思われます。しかし、新聞などではホテルの別館と見なしてでしょうか「常盤別荘」と書かれることが多く、時には「常盤荘」などともしています。

●ホテルの構造

上条二条橋詰京都倶楽部前に目下工事中なる神戸常盤舎の支店は巳に七八分出来せしが、七月十五日頃には開業する手筈といふ。同店は常盤舎の主人前田又吉が隠居引移り営業する由にて、庭内へは加茂川の水を引き入れ築山を築き、頗る壮観なる構造なりといふ。

<明治22年6月22日「日出新聞」>

場所は「上京二条橋詰京都倶楽部前」とありますが、京都倶楽部というのは、元の舎密局の本局に入っておりました。舎密局は初め明治4年に勧業場の中に仮局が設けられ、翌5年に分局が二条橋詰め上ルの旧角倉邸馬場跡にできました。

そして6年に、分局よりさらに北側の夷川土手町、旧京極宮別邸跡に本局が完成しています。明石博高(ひろあきら)の建議によってはじめられた理化学教育と化学工業技術の指導機関です。

舎密局舎密局

外国人教師を招いて理化学校を開いたほか、実技指導や実験もしました。製造場では、里没那垤(リモナーデ)、依剥加良私酒(イポカラス)、公膳本酒(こうぜんポンス)、氷砂糖、鉄砲水(ラムネ)、などをつくって売り出し、石鹸、陶磁器、七宝焼、ガラス、顔料なども製造していました。明治14年に明石が施設をそっくり払い下げを受けたものの、経営難で、3年後には廃絶しています。その後、土地や建物は分譲され、本局には京都倶楽部が入りましたが、間もなく焼失してしまいます。

二条橋詰めのあたりには、当時まだ閑静な土地であったらしく、前田又吉は、周辺の空き地を別荘として、知人たちに勧めています。次のような記事が出ました。

●別荘ばやり

神戸港なる川崎造船所長川崎正造氏は、今度常盤楼主人前田又吉の周旋にて、京都川端夷川下る前田又吉氏の新築せし家屋の北手に、地所四百余坪を一坪五円にて買い受け茲別荘を建築する由なるが、川崎氏は将来京都にて一大事業を起こすとの計画もあるよし。
又川崎氏の買得したる北隣り即ち京都倶楽部たりし向側の地所は、高島中将の所有地なるが、同中将にも茲に別荘を建てる見込みなりと。又京都倶楽部たりし地は、今度桜井能監その他の所有者より華族五辻安中氏が買得、五辻氏の別荘を建て且壮大の庭園を作らるゝとの事。

また二条橋西詰の北側なる二条通りと今の前田又吉氏の家屋との間の地面は、元老院議官渡辺昇氏が買得したるが、同氏は茲に粋な構へを設けられるゝとか。また過日来修繕に着手中なりし木屋町二条下る処の藤田鹿太郎氏(大阪)の別荘は其修繕費に一万余円を要し、鴨川の沿岸より庭園に水をひくなど結構至らざる処なき程なるが、右は本月中に全く竣功の筈なりと。
また河原町二条下る京都織物会社の地所家屋は今度一万二千円にて日本土木会社の理事桑原深造氏に売渡したるが、桑原氏は茲に別荘を建てるとも云い、又一説には同氏が一旦買受けおき更に宜買い手を見て手離すの見込みなりともいひ、又一説には藤田伝一郎氏が内々手を入れて別荘を作るものなりともいへり。
何さま此地は角倉氏が充分の好みを尽し設けたる庭園あり手京都第一とも呼ばるゝ程なるが、曾て京都勧業課の所有なりしを、先年京都織物会社が金二万円にて織殿の家屋および機械を併せ払受けたるも、同会社は今度川端に新築したるがゆえ右の地所家屋も不用となり、桑原氏へ売渡すことになりしものなりといふ。
また京都府知事は今度其私宅の近傍に多くの所有地所あるを幸ひ、其中で尤も眺望よき地を撰み鴨川岸に沿ひ三階立ての大座敷を新築する計画なりといふ。

<11月10日「日出新聞」>

このように、現在の「京都ホテル」のルーツを探ってゆきますと、「常盤別荘」を手がけた明治21年(1888年)が、創業の年ということになります。

河原町御池の勧業上の跡地に「常盤ホテル」が出来ますと、営業の中心はホテルに移りましたが、前田又吉が京都に乗り込んで旅館の経営を志したのは、この「常盤別荘」が手初めでしたし、そこからホテル建設へと事業が発展して「常盤ホテル」が生まれたのでした。

前田の死後、経営は「也阿弥ホテル」の井上万吉・喜太郎兄弟の手に移って、改めて「京都ホテル」を名乗ります。
これは明治27年から28年にかけてのことです。

当時(明治半ば)の島津製作所
画面右手が常盤別荘(島津創業記念資料館提供)当時(明治半ば)の島津製作所
画面右手が常盤別荘
(島津創業記念資料館提供)
明治21年

翌年の明治憲法発布を控え、枢密院でその草案審議が始まる。一方欧米との対外外交を目指して大隈外交がスタート。「君が代」が作られたのもこの年。

二条橋西詰め上ル

二条通木屋町界隈は高瀬川の起点となるところ。高瀬舟の発着地であった「一之舟入」には、往時をしのんで俵や酒樽を積んだ高瀬舟が史跡として残されている。

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