第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

3.京都博覧会

ところで、都が東京に移ってしまうと、京の町は、すっかり火が消えたようになりました。知事をはじめ、町衆の主だった人たちが、殖産興業による新しい町づくりに、真剣に取り組みました。琵琶湖疎水やチンチン電車など、最先端の事業を興して活気を取り戻そうというわけです。そんな計画の一つに、京都博覧会の開催がありました。

明治5年の陰暦3月10日から80日間、わが国最初の博覧会が、知恩院・建仁寺の2会場で、開かれることになりました。古都の伝統産業などを広く紹介するとともに、海外からも出展してもらい、文明開化の空気を京の町に導こうということです。それにはどうしても、外国人の入京制限を解いてもらう必要がありました。

京都府の陳情をうけて、政府は、早速、各国の公使領事あてに、京都で博覧会を開催するので、入京を許可する旨を伝え、出展を促しました。京都府も外国人入京規則をつくって、外国人専用の案内所を、神戸・大阪のほか、京都の入り口などに設けるとか、市民との間にトラブルが起きないようにと、官服の袖に英語で「ガード」と書いた「ポリス」を巡回させ、また、辻には公衆便所をもうけたり、道路沿いの溝には蓋をさせたり、外国人の入京に備えました。
外国人たちも、これで初めて、日本の奥地へも旅行が出来るようになったのでした。

京都博覧会はたいへん好評で、入場者は3万8000人にのぼり、予想以上の収益をあげました。外国人の入場は770人でした。これに気をよくして、以降、京都博覧会は毎年開催されることになります。博覧会の付博覧、いわば余興として、期間中、花街が競って公演をしています。

祇園の「都をどり」、先斗町(ぽんとちょう)の「鴨川をどり」などが始まったのも、この時からです。たいへん好評で、「都をどり」は現在までつづいていますし、「鴨川をどり」も、一時中断しましたが、いまは復活されて、ともに京都観光の代表的な年中行事になっています。

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