第五部 昭和戦後編 ~感慨無量~ 昭和21年~昭和63年

57.ホテル接収

昭和20年8月30日、マッカーサー元帥が厚木飛行場に着陸、ただちに横浜のホテル・ニューグランドに入りました。9月20日、降伏文書が調印され、日本は連合軍の占領下に置かれました。戦時中、軍の徴用や、戦災などで日本のホテルは打ちのめされた状態でしたが、敗戦と共に、今度は進駐軍によって、生き残ったホテルのほとんどが接収されました。
京都の3ホテルの接収と、その解除とは、次のようになっていますが、「京都ホテル」と「都ホテル」は将校宿舎、そして「ステーションホテル」は司令部宿舎にあてられました。「志賀高原温泉ホテル」は休養とレジャー用の宿舎となりました。

  接収 解除
京都ホテル 20年9月26日 27年8月1日
都ホテル 20年9月25日 27年3月31日
ステーションホテル 20年9月26日 27年5月31日
志賀高原温泉ホテル 20年12月5日 27年6月30日

「京都ホテル」に宿泊の将校は、主として司令部のあった烏丸四条の大建ビルに通勤しました。したがって、ホテルの仕事は、毎日のベッド作りと、食事の用意ぐらいなもので、あとは荷物を部屋へ運ぶなどのサービスぐらいなものでした。最初は家族づれの将校もいましたが、植物園が接収され、そちらに家族宿舎が出来てからは、「京都ホテル」は独身、又は単身者だけになりました。

進駐軍の関係者の中には、かなり口うるさい人もおりましたが、特にやかましかったのが衛生でした。清潔と言うことで、やたら白いペンキを塗らされたものです。「奈良ホテル」などは、全館ペンキを塗るよう指令が出ましたが、それでは、折角の由緒ある建物が台無しになりますので、必死に反対して、ようやく従業員の部屋だけ白いペンキを塗って勘弁してもらった話なども伝わっています。
また「帝国ホテル」社長の犬丸徹三は、『進駐軍接収から学んだもの』という一文の中で、アメリカのホテル運営の優れた点として、徹底した火災予防と衛生思想とを強調しています。また犬丸は、日本のホテルマンは、進駐軍のお世話をすることで、まるでアメリカへホテル実習に出かけたのと同じようなもので、これは貴重な体験であったとしています。

ホテルと名の付く施設はすべて接収を受けましたので、大小併せて、全国で70館を数えました。占領軍の将校やアメリカ人バイヤーの宿泊にあてられました。とくにアメリカは、日本の市場に大きな期待をよせましたので、バイヤーの来日も多く、たちまちホテル不足を感じるようになりました。政府は、民間のホテル新設を奨励して低利の建設資金を融資したり、建設資材の割り当てを優先するなど、さまざまの優遇措置をとっています。さらに政府自体が、直営の建設を考えるようになりました。

昭和22年の民間貿易再開を機に、貿易庁直営のホテルとして、京都駅前に「ホテル ラクヨウ」が生まれました。直営ホテルは最終的には東京に3館、名古屋・京都・大阪に各1館、計6館が開業しました。

6館あわせて418室、ベッドは690でした。昭和23年の来日外国人は6300人となり、ホテル不足は明らかでした。このため、民間のホテル建設もさかんとなり、東京では、旧宮廷などをホテルに改造して営業するのも増えました。
しかし、これらのホテルは外国人専用で、日本人は閉め出されています。

植物園の接収

当初は将校宿舎として御所が接収される予定であったが宮内省の反対で植物園が接収されることになった。

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