第二部 明治編 ~順風満帆~ 明治27年~明治44年

28.「都ホテル」の創立

明治33年4月に、蹴上の料亭「吉水園」が、「ボーイ数名入用に付望の方は至急御来談あるべし 都ホテル」という新聞広告を出しました。
6月に入ってようやく、「都ホテル」の開業予告が、新聞に載ります。開業は8月10日でした。

●都ホテル

西村仁兵衛、中村栄助、高木文平、上野栄三郎、その他諸氏の匿名組合にて、将来、大「ホテル」を建設するの下拵えとして創立したる都「ホテル」は、此程既に建築落成し、器具、装飾品等も整頓したるを以て、昨今専ら内部の準備を取り急ぎ居り、来る二十日頃より開業する見込みなりと云ふ。
因に記す、同「ホテル」は西村仁兵衛氏所有の保養館を改造し、尚ほ、其東方に三棟を増築し、部屋二十、玉突場、酒保、大小二個の食堂、事務所等を設け、内外の貴顕紳士を宿泊せしめ、又一面には京都紳士が交際の用に供する倶楽部とするの目的にて、現に待賓舎なるものを組織せしに、会員の申込みありしもの、七十余名に及び、尚ほ続々入会者ありと云へり。尤も同「ホテル」の目的は、漸次拡張して、大「ホテル」を建築する計画なれば、其暁には、此都「ホテル」は付属館とする筈なりと。

<明治33年6月15日「日出新聞」>

●都ホテルの開業披露

三条蹴上げの吉水園内に建築せし都ホテルは、既に落成したるを以て、去る二日以来府庁高等官、市長、助役、代議士その他市有力者等を順次招待し披露を為しつつあり、一昨夜は京都商業会議所員及び京阪新聞社員等を招けり。
席上、館主代理の挨拶、来賓の祝辞等もあり、同9時頃散会せり。同ホテルは、頗る眺望に富み、且土地高燥にして、空気の流通も宜しく且つ庭園には運動場もあり。
客室は一二等合して十八室、外には玉突場、酒場各一、食堂二、談話室二あり、追て上等室をも其頂上に建設の計画あり、明春より工事に着手する筈なり。
尚ほ毎月一回、余興として吉水園踊りと云ふを催ふす由にて、目下鴨東眩妓わして練習せしめつつありといふ。

<明治33年8月9日「日出新聞」>

三条古川町の油商、西村仁兵衛が、明治26年に華頂山の中腹に「吉水園」という貸し席を開きました。本館は八景閣といい、100坪ほどの建物で、大小の部屋にわかれ、各種の会合にあてられました。ほかに大浴場、大広間などの別棟があり、眺望の良さを誇りました。
明治33年、全館を洋式に改築して、ホテルに転向したのでした。日出新聞の報ずるところでは、出資者は匿名組合であったといいますし、経営者の西村仁兵衛は、将来、大ホテルを建設する構想をもっていたようです。と同時に、明治32年に「也阿弥ホテル」が火事を出し、再建がはかどらないことも、ホテル業に転進するきっかけの一つではなかったかとおもわれます。

●株式会社都「ホテル」の創立

同「ホテル」発起人は一昨九日夜、吉水園都「ホテル」に会合し、種々協議の末、愈々資金二十万円、株数四千株、一株の金額五十円とし、目論見書及定款等を議定したるが、其組織を聞くに、株式は総て発起人にて引受け、在来の建築物の外に、完全なる客室五十室と大食堂一棟を増築することとし、其成功期限は明三年三月中として、出来の上は、「ホテル」事業に経験のある外国人を招聘して支配人とすることとし、目下其向に交渉中なりと。而して其発起人の重なるは左の如しと云ふ。

高木文平、中村栄助、深見伊平衛、中野迅八、上野栄三郎、佐藤百太郎、岡本治助、鈴鹿弁三郎、深川新三郎、高山甚助、柴田甚兵衛、片桐正雄、藤沢愛七、田中卯兵衛、小垣染七、田中源太郎、黒川七郎兵衛、西村仁兵衛

<明治33年12月11日「日出新聞」>

明治34年の年末に、「都ホテル」の営業ぶりを紹介した記事があります。「也阿弥ホテル」が許可問題で再開ができないことを幸いに、地盤を築くのに大わらわの様子がうかがえます。

●「ホテル」業の近況

当地に於る「ホテル」業の本年中の営業を聞くに、北清戦役の影響により、来遊外客の数、非常に多く、何れも繁昌を極め、夏期の如きは、京都「ホテル」、都「ホテル」共に客室の不足を感じたる程に止宿者ありし由にて、都「ホテル」の如きは先ず一ヶ年を通じて一日平均二十人強に当たり、最多数の日は八十人に上りたることありといへり▲

都「ホテル」にては、也阿弥「ホテル」の完成を見るまでに、充分得意先を確実にせんとの計画より、客室の改良をなし、既に室毎に「ストーブ」の設備を終りたりといひ、又同「ホテル」の人力車は往々不当の賃銭を貪る所より、兎角悪評を免れざりしが、今回之れを改良し、同所より七条停車場迄従来四十銭なりしを、三〇銭に値下げしたる外、市内各地への賃銭をも厳重に引き下げ、取締ることとなせし由▲

来る廿五日は基督降誕祭の当日なる故、欧米の習慣に倣ひ、都「ホテル」にては角力、狂言、芸者手踊、その他各種の余興を催して、広く内外人を引き寄せんとの計画ありと云ふ。

<明治34年12月19日「日出新聞」>

しかし経営は、必ずしも順調ではなかったようです。明治35年、銀行の差し押さえを受けました。

●都ホテルの競売期日確定(再抗告棄却)

債権者鴨東銀行より申請したる都ホテル競売の決定に対し、債権者西村仁兵衛氏より為したる再抗告事件は、大審院於いて棄却せられたる理由を聞くに、不動産競売は非訟事件にて、抗告は一回を限り許可するも、抗告裁判所に於いて決定を与へたる以上は、如何なる理由の存するや否やに拘はらず、再抗告は許可せざるものなりと云ふに在りと。右に付き京都区裁判所は愈来る七月十四日午前九時、都ホテルにおいて競売執行する事と確定ありたり。

<明治35年6月26日「日出新聞」>

明治34年

この年、山陽線全通。八幡製鉄所の熔鉱炉に火が入り、日本は重工業時代へ歩み出す。一方、社会民主党結成(即日禁止)など、社会運動、労働運動も高まりを見せはじめた。
京都では、関西貿易会社の解散による取付騒ぎが起こり、銀行が休業に陥った。

債権者鴨東銀行

鴨東銀行は明治28年創立。関西貿易合資会社の大口再建銀行の一つとして、明治34年5月の取付けにより休業。8月に至って部分払いを再建するが再起不能となる。都ホテルの競売申し立ても、これに伴うものであろう。

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