第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年

5.「自由亭」の進出

さきにも紹介しました草野丈吉の「自由亭」が、明治10年ごろ、京都へ進出してきました。詳しい記録が残されていないために、「自由亭」の経営者を、「京都ホテル」とも関係の深い前田又吉としたり、「中村楼」としている書物が多いのですが、これは間違いのようです。
大阪でホテルと西洋料理の店を開いて成功した草野が、京都に支店を出したのでした。前田又吉も、神戸で料亭を開いて成功し、京都に乗り込んで「常盤ホテル」を始めた人ですが、こちらは少し遅れて、明治21年のことになります。

草野の「自由亭」は祇園八坂神社の大鳥居前、参道の西側にありました。ちょうど「中村屋」の真向かいです。先輩格の「中村屋」としては、強力な競争相手が、目の前に飛び込んできたことになります。

明治16年に出版された「都の魁」には、「自由亭」の広告が、見開き2ページという特大の大きさで出ています。挿絵だけで説明はなく、ただ、日本語で「外国向御料理自由亭」、そして英語では、「ジュウテイ バレス ホテル キョウト」とあるだけです。
2階建ての西洋館が描かれています。部屋数は20室であったと伝えられています。ところで、「中村屋」の方は、「都の魁」には、なぜか挿絵はなく、「日本・西洋 御料理二軒茶屋 中村屋」とだけの、小さな文字広告が載るだけです。

「自由亭」の広告「自由亭」の広告

「自由亭」は、少なくとも明治18年夏ごろまでは、京都で営業をしていたようです。地元の「日出新聞」の明治18年7月の記事に、「自由亭草野幸次郎方に滞在する米人云々」とあります。草野丈吉は、すでにこのころ亡くなっていたのかもしれません。

大阪の「自由亭」の方も明治20年ごろには、経営者は草野錦となっています。そして、この記事を最後に、「自由亭」の名前は京都の新聞には出てこなくなりました。

「日出新聞」は、毎月の外国人宿泊統計を掲載していますが、それにも、明治18年の夏からあと、「自由亭」の名は出てこないのです。やはり、廃業したように思われます。草野丈吉の死去とともに、やがて京都からは手をひき、大阪の「自由亭」だけになったのではないでしょうか。

ちなみに、マレー・ハンドブックの「日本案内記」初版は明治14年の刊行ですが、全国のホテル一覧を掲載しています。ホテルの数は27です。横浜はホテルの先進地だけに圧倒的に多くて7店、東京は「精養軒」の1店だけ、大阪も「自由亭ホテル」だけですが、京都は「自由亭」「也阿弥」「中村屋」の3つが挙げられています。

それが24年刊行の第3版になりますと、全国では30と、わずかながらホテルの数が増えました。横浜は3店に減り、東京は「帝国ホテル」などが加わって4店に増え、そして京都は3店で数は同じですが、顔ぶれはちょっと変わって「也阿弥ホテル」「常盤ホテル」「中村屋」の3つになっています。
「自由亭」の名前は消えました。

ついで、明治36年の「チェンバレン日本帝国小史」7版を見ますと、ホテルの数は全国で52です。京都は数は同じく3つのままですが、また顔ぶれが変わって「也阿弥ホテル」「京都ホテル」「都ホテル」となっています。全国でホテルの数が急増しているのは、地方都市や、避暑観光地などにリゾートホテルが増えているためです。ただ、大都市ではホテルの数は増えていなくても、ベッドの数は増えているはずですが、残念ながらベッド数の統計は見つかりません。

「明治10年」

この年、不平士族最大の反乱である「西南戦争」が勃発。9月に西郷隆盛が自刃して幕を閉じる。また、翌年には、西郷の盟友でもあった大久保利通が暗殺されるなど、世情は騒然。

「日出新聞」

「中外電報」(前身は「京都新報」)を経営する京都実業界のリーダー・浜岡光哲によって、明治18年4月に創刊された。「中外電報」廃刊後は、内容,人気ともそれに代わる地元有力紙として発展し、同30年7月に「京都日出新聞」と改題。 昭和17年4月、「京都日日新聞」と合併して現在の「京都新聞」となった。

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