100年ものがたり

第二部 明治編

32.「也阿弥」再度の火災

明治39年4月、「也阿弥ホテル」が再び火事を出してしまいました。再築して5年そこそこの新築3棟を全焼して、円山名物の一つであった五層楼の円山温泉など、ホテル周辺にあった施設も焼つくしています。
高台にある3階建ての建物なので、燃え落ちるようすが、町からも良く見えたといいます。新聞も「高閣の全面紅楼に化せしなれば、其壮観いはん方なく・・・」と書いています。

宿泊の外国人は男女老幼87人でしたが、幸い1人の死傷者もありませんでした。深夜の火事で、逃げ出したものの急斜面で道がわからず、泣き叫んで救いを求めた夫人もありました。荷物などもかなり焼かれました。

「京都ホテル」「都ホテル」や知恩院・南禅寺などに分散して収容されています。
また、京都での観光を止めて神戸へ戻っていった客もかなりありました。

「也阿弥」としては、2度目の火事です。32年の火事の後ではホテルの復旧の条件として、不燃の構造にするよう京都市参事会から注文をつけられ、なかなか許可が下りなかったのですが、株式組織にすることで、35年ようやく営業再開にこじつけたという経緯があります。

当時ホテルの再建に意欲を燃やした「也阿弥楼」の創業者、井上万吉は、今度の火事の半年前から糖尿で、既に経営の第一線から離れていました。やはり2度の火災はショックであったと思われます。火事から4ヶ月後の8月7日、ついに永眠しました。享年61歳でした。

今度の火事でも、南館一棟だけは焼け残りしたので、20人ぐらいは宿泊が出来ました。
ホテルと名ばかりの施設で、とても採算がとれる状態ではありませんでしたが、細々と営業を続けながら、大沢善助社長が中心となって、復旧の策を講じています。
しかし今度こそ、全館を煉瓦造りにしなければ、用地の借用延長は認められそうにありませんでした。

それには50万円の資金が必要と計算されました。対策の一つとして、神戸の「オリエンタル」との合同による再建も考えられました。
しかし合併のためにも資金が必要です。地元の2、3の有力者に打診したところ、京都に近代的な大ホテルが必要なことは誰もが認めますが、それでは資金を出そうという人はありませんでした。

行き悩む「也阿弥ホテル」の再建に、新聞には、ホテル市営論もあらわれています。大ホテルの建設が民間資本では手に余るというのであれば、水道や疎水事業と同じく、京都市が多少の赤字は覚悟のうえでホテルを経営してはどうかという提案でした。

しかし京都市を動かすには至らず、41年末に、京都市は「也阿弥ホテル」に用地の返還を命じました。大沢社長も、復興の望みが絶たれてしまいました。


京都のホテルが一つ減って、外国人客の中には京都で泊まるのをあきらめ、日帰りで京見物し、神戸で泊まるの人たちも増えました。
そこで、「京都ホテル」では、日本館を手直しして、収容数を増やし、「都ホテル」もまた、50室の新館1棟をつくることをきめています。

こうして京都の3ホテル競争の時代は、わずか5年で終わったことになります。以後、「京都ホテル」と「都ホテル」が、シノギを削って競争する時代が続きます。

 


明治39年4月

鉄道国有法が公布され、「国鉄」が発足。京都では、西陣を中心に織物消費税廃止運動が高まる。松竹兄弟による南座買収、浅井忠らによる関西美術院創設もこの年である。

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