100年ものがたり

第一部 前史編

8.勧業場払い下げ


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京都勧業場

 

河原町二条下ルの勧業場の払い下げは、すんなりとは、進みませんでした。川島甚兵衛の申請に対し、府の勧業課が、厳しい条件を幾つか持ち出しています。

まず、坪3円とし、しかもホテルの建築費は10万円以上、内外の装飾には京都の特産品を使うことというのです。問題は地代であったようです。時価で坪1円50銭が相場の跡地を、2倍で買えというのでした。新聞記事によりますと、当時、府の勧業資金は赤字であり、この地代収入をそちらに回す必要があるから、坪3万円は一文たりともまけられぬと、たいへん強気だというのです。

跡地の広さは約3500坪で、土地の払い下げだけで、1万円、その上10万円以上の建築費が要ります。ところで、その年の1月から10月10日までに京都で宿泊した外国人を数えてみたら、1493人に過ぎなかったそうです。1日平均5人です。豪華なホテルを経営してゆくためには、1日80人の客がほしいということですから、これでは、誰が考えても採算が合いません。

川島甚兵衛が二の足を踏んでいると、つぎつぎに競争相手が現れました。新聞に名前が出たのは、富田半兵衛、内貴甚三郎、能川登、前田又吉という人たちです。内貴は京都株式取引所・京都商工銀行・京都織物などの発起人をつとめ、明治31年からは初代の京都市長にもなった地元政財界の大立者です。最後に名前のでた前田又吉は、神戸の諏訪山で「常盤花壇」という料亭を経営していた人物です。新聞に初めてその名が載ったのが10月2日付で、4日付の新聞ではもう、前田は許可を得て、すでに1万円の地代を勧業場に払い込み済みだと報じられました。

●「ホテル」敷地払下の特約

婁々報道したる上京区河原町二条下る処の旧勧業場跡地三千五百余坪は、愈々一昨日建物敷石を除き悉皆を一万円にて前田又吉(神戸常盤楼主人)安藤文平(株 式取引所書記)の両氏へ払い下げたり。尤も右払下に就いては風説のごとく数個条の約束ありて、第一は該地所は必ず「ホテル」を建設する事、第二「ホテル」 の建築は木造及煉瓦造にして費用五万円以上なる事、第三建築は二ヶ年以内に着手のこと、第四建築成功は着手より二カ年以内のこと等にて、以上の条件を履行せざるにおいては直に原価を以て府庁へ買戻すの約定なりと云ふ。

<明治22年10月4日「中外電報」>

とにかく前田又吉は、許可が下りた途端に手回しよく、建築の発注から庭つくりの手配までして、翌日には京都府に1万円を上納すると、早速、地ならしをを始めました。

これに比べますと、地元京都側の申請者たちは、川島といい内貴といい、これから出資者を募る段どりだというのんびりさでした。前田の方は申請書を出す段階で、すでに資金繰りから業者の選定まで終わっていたわけです。しかも、奇妙なことに、申請から許可までに、数日しかかかっていませんし、新聞を見るまでみ るかぎりでは、その間に府庁と交渉した形跡が全くありません。
中央で話を決めていたのでした。「日出新聞」は、京都勢がもたもたしている間に、他府県の人間にしてやられたと、地元の有力者たちに皮肉をいっています。それにしても、何となく、唐突の感じを免れません。やはり、裏の事情があったように想像されます。

じつは、前田又吉の背後には、初代の総理大臣として、飛ぶ鳥も落とす勢いの、伯爵・伊藤博文がおりました。前田は神戸では、料亭の主人というだけでなく、 政財界の士として広く交際をして、かなり社会的にも名を知られた名士でしたが、伊藤博文は明治初年、わずかの期間でしたが、兵庫県知事をしておりましたの で、それ以来、前田と伊藤とは、かなり親密な間柄になっていたようです。伊藤の養子・勇吉のために神戸諏訪山に別荘を用意していますが、その経緯は、追って紹介することにします。

もう一つ、伊藤博文と勧業場とには、深いつながりがありました。勧業場は明治4年、河原町御池の一角、一之船入町にあった旧長州藩邸の跡に建てられました。維新の際のどんどん焼けで、あちこちに火を放ったのが広がって、とうとう市中の大半を焼けつくすことに至ったのですが、それ以降は 空き地のまま放置されていました。

京都府は、天皇東幸のあと京都に活力を呼び戻すために、勧業課を設けて、欧米の新しい機械を導入したり、物産の陳列場を設けたり、勧業資金を貸し付 けたりして、業者の指導に当たりました。洋館二階建ての本館を中心に、舎密(せいみ)局・製糸場・織殿・染殿・集産場・欧学舎・製靴場・栽培試験場などが つぎつぎに建てられ、この一帯は、あたかも産業振興の実験場の感がありました。知事が代わると、一応の目的を達したとして、これらの施設はつぎつぎに廃止 または民間に払い下げられ、明治20年にもなると、勧業場だけがとり残され、ここには府画学校が置かれていました。

伊藤博文はいうまでもなく、長州の出ですから、旧藩邸跡の空き地の利用については、当然関心があったはずです。前田又吉がここの払下げを申請するか らには、博文に意を通じて、協力を求めたことは考えられるところです。あるいは、博文の方から前田に呼び掛けて、払い下げを申請させたかもしれません。というのは、このホテル建設の計画は、最初から採算を度外視して進められているからです。わざわざ神戸から前田が乗り込んできたのは、博文の要請があったためとする方が、自然のように思われます。「常盤ホテル」は、伊藤博文の肝煎りで生まれたようなもの、といえるかもしれません。


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