100年ものがたり

第一部 前史編

7.大ホテル待望論

新聞には、しばしば「京都にも大ホテルが必要である」というような記事が載りました。代表的なものを一つ、紹介しましょう。

 

●迎賓館と荷問屋

些に早計の話のやうなれど、今琵琶湖疎水工事出来のうへは、鴨涯の荒神橋より丸太町橋辺までの間が船附場になるとかに付て、京都の一紳士が大阪の豪商で何 にでも随分手をよく出す人へ勧告せらる丶やうには、右の地所を今の内に買得して洋風にて立派なる迎賓館兼ホテルとでも云ふべき巨大の高楼を建設し、所謂六十六峰を一眸の中に集拾し来らば内外の紳士は喜んで来遊せん、亦一商法ならずや、之に加ふるに其高楼の下に荷問屋など設置せば頗る妙ならんとありしかば、右の豪商先生は忽ち手を拱いてハテナ…。

<明治19年10月30日 「日出新聞」>

 

明治22年の7月には、東京〜神戸間の鉄道が全通して夜行特急運転もはじまりました。「午後五時三十分神戸発の汽車は夜中休みなしに運転して翌朝五時五十六分静岡に達し同日午後一時四十分東京に着すと云ふ」との記事が載りました。
東京まで20時間10分の旅ですが、当時としては、画期的な出来事であったに違いありません。現在の新幹線3時間と較べますと、今昔の感にたえません。

京都の人たちは、これで京都に東京から観光客がどっと押しかけてくることを期待したのでした。その受け入れのためにも、本格的な大ホテルがほしいとの世論がわきました。
新聞に、勧業場跡の払い下げ問題が登場します。明治22年5月の「中外電報」の記事が初見です。

 

●大「ホテル」と美術参考館

東海道全通の上は其他より京都に来らる丶内外の貴賓も多かるべきに、其旅館に充つべき適当の家屋に乏しきは第一の欠点なればとて、今度、川島甚兵衛氏が二三の有志者と謀りて一大「ホテル」を建築し、其傍に沿て美術参考館を設け、京都物産中の美術品のみを蒐集して、旅客の縦覧に供せんとの趣向にて、専ら其計画中なり。
而して其場処は河原町二条上る辺に定むることは略ぼ内決し居るとか聞けり。

 

<明治22年5月24日 「中外電報」>

 

この記事では、大「ホテル」の建設地として、「河原町二条上がる辺」とぼかされていますが、やがて候補地は、もと勧業場があった場所であることがはっきりとします。その後数カ月の間、勧業場跡地の払い下げ問題が、「中外」や「日出」などの地方紙に、さかんに出てきますが、「中外」が川島の計画の続報を載せました。

川島甚兵衛は、父子そろって西陣織・綴織の技術改良に功績があった人たちです。
初代甚兵衛は明治14年、羽二重縮緬を織り出し、2代目甚兵衛は19年、日本の伝統織物の紹介をかねて海外視察に赴き、バリでゴブラン織を研究して帰国しました。
綴織の技術開発に努め、内外の博覧会などに出展してたびたび受賞しています。
ホテル建設に名乗りを上げたのは、2代目甚兵衛です。明治17年に川島織場を設立して、現在の川島織物の基礎をつくりました。

 


東京〜神戸間の鉄道が全通

京都駅開業は明治10年、京都−神戸間の鉄道開通にはじまる。
東海道本線神戸−東京間全通は明治22年7月1日。京都から東京まで船を利用して4日の行程を要したのが1日に短縮された。なお、当時の新宿〜大阪間旅客運賃は3円56銭。

 

川島の計画の続報

<明治22年8月21日「中外」>
●「ホテル」敷地の払下願
川島甚兵衛氏他二三の発起にて、上京区河原町二条下ル旧勧業場の官有地払下げを願ひ、広大なる一大「ホテル」を建設せんとの議ある由は、聞く処なるが、過日北垣府知事が東上の際右の官有地は払い下げを許可せらるべきや否やを其筋へ問合したるに、将来に見込みありと認めたる時は払下ぐべしとの説なりし由にて、川島氏は愈よ近日、其設計書及び将来営業の目的方法などを具し払下げを出願するの都合なりと聞く。

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